白黒つけたい夢のような出来事

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 秋も日に日に深まる十月末のこと。平々凡々な一般大学生、西川 守は大学生らしく大学の中央図書館のロビーにいた。つい先程までは二重作 志郎――こちらは一般的というには出席日数が常にギリギリな大学生――が、隣で新聞を読むともなしに読んでいたけれど、守が明日提出のレポートについて思い出させてやったため、慌てて学生証をかざして入館ゲートから館内へ入っていった。いまから文献を掻き集めて明日の昼までに果たしてA4十枚のレポートが書き上がるのかは分からなかったが、不思議となんとかしてしまうのが二重作だったから、あまり本気で心配はしていなかった。

 図書館のロビーでは『読書の秋』をテーマにした資料展示コーナーが展開されている。守の通っている大学は、複数の学部を有する総合大学であり、図書館は分館がいくつも存在する。この中央図書館は、その名の通り、大学の敷地の大体真ん中あたりに位置していて、地上六階、地下二階建ての建物だ。図書、新聞、雑誌、データベース、視聴覚資料、マイクロ資料等々。所蔵資料は多いが、なんせ昨今の「本を読まない大学生」の例に漏れず、この大学図書館でも学生の年間貸出冊数は伸び悩んでいるらしい。だから『読書の秋』にかこつけて、本を読ませようとしてみたり、ロビーに喫茶コーナーを設けたりして、来館者確保に必死なのだ。

 守は別段、本を読むのは好きでも嫌いでもない。あれば読むし、レポート作成のために図書館に通うことも普通にする。でも活字中毒というわけでもないので、なくても平気だ。そんな守が、三年次になってコンスタントに図書館に来るようになった理由が、新聞だ。守はアパート一人暮らしで、新聞は取っていない。けれどそろそろ就職活動を見据えて地道に準備をしなければと思い、とりあえず新聞だけは図書館に通って読んでいるわけだ。

 幸い喫茶コーナーができたことでコーヒーを飲みながら読むことができるし、お金を払わずとも複数の紙面を読み比べることができるから重宝している。最近では電子新聞も閲覧できる環境にあるらしいが、何となく馴染まなくてつい紙の新聞を手にしてしまう。勿論就職のために準備することが新聞だけというのは心許なく、公務員試験対策講座も二年次から継続して受けているし、SPIだってテキストを購入して勉強を進め、いまは三冊目だ。何事も地道に、というのが自分の堅持するべき美点だと守自身は思っている。ただ、面接で好印象を与えるにはあまりに地味すぎるというのが唯一の欠点と言えるだろう。

 大学時代に何か、それこそ就職活動においても目玉となるような経験を、とこの間進路課の職員にも言われてしまった。平々凡々な大学生活を謳歌しているつもりの自分にとっては、大きな落とし穴と言っていい指摘だった。

 目玉となるような経験……ね。

 少しおかしな経験をしているとは思うんです、とは進路課の職員には言わずにおいた。就職活動に役立つ経験かと問われれば、絶対にそうではないから。むしろ、あまり巻き込まれると就職に影響があるかもしれない経験だと思う。予測が立てられるなら逃げたいが、生憎不測の事態が多い。そう、例えば――。

「あー、君だね? 西川守君」

 今日みたいな時だ。フルネームで名前を呼ばれることなんて、朝のホームルームで取る出席もなくなった大学生としては、おそらく病院の受付くらいじゃないだろうか。しかし守がいるのは大学図書館のロビー。読んでいた新聞から視線を上げると、ひとり掛けのソファに座る守の目の前に立つ、人の腹が目に入った。ロビーのガラス越しに温かく降り注ぐ、午後一番の日差し中で光る白いよれよれのワイシャツ。

「はい? ……あ、はい、西川です。高村(こうむら)先生」

 何が「君だね?」にあたるのか分からなかったが、とりあえず名前は合っているし、正面に立たれては無視することもできない。返事をすると、目の前の人物はくぐもった声で守に尋ねた。

「君、ぼくの授業受けてたかね、西川君」
「いえ、受けていません」

 所属学部が違うし、一般教養の教授ではなかったから。

「ふうん? じゃあ君は何か、あー、この大学の全教員の名前と顔を必要もないのに覚えている?」
「いえ、そんなことは……」

 大体顔なんて、と言いかけて止めた。あまり余計なことは言わないでおいた方がいいと、本能が叫んでいたから。

「じゃあどうしてぼくの名前と身分を知っているのか、教えてもらえるかね」

 相手は学部が違えど教授だし、しがない学生の身分としては聞かれれば答えるしかないわけだが、理由はごくごく単純なことなのだ。

「あの、先生、IDカード首から下げていらっしゃいますよね」

 守が指摘すると、はっとした様子で高村教授(のIDカードを持つ人物)は自分の腹のあたりにあるカードケースに触れた。

「あ、見たの」
「えっと……すみません、見ました」

 だって、最初から隠してなかったし。声をかけられて新聞から顔を上げたら、まず教授の腹が目に入ったのだ。必然的にそこにぶら下がっているIDカードが目に入った。それまで活字を追うことに集中していた目が、自然とそのIDカードに書かれた名前に吸い寄せられても、何も謝らなければいけないことはないと思う。しかし相手の感情がよく見えず、つい謝ってしまった。

「これ、下げてないとどこかに置いちゃってそのまま忘れちゃうし、下げてたら下げてたで、下げていることを忘れちゃうんだよね」
「はあ」

 のほほんとした声のトーンから窺うとどうやら怒ってはいないようだが、結局何で自分に声をかけてきたのか分からない。分からないけれど、分からないままでいいからこれで会話が終わってくれないか、という期待を込めて守はサイドテーブルに置いていたコーヒーを口にした。さりげない会話終了の合図にならないか、なんてやはり淡い期待に終わる。

「ところで、西川君。君、就職考えてるの? 私立探偵とか」
「ぐふっ!」

 裏切られること前提の期待を裏切るのはいいが、そういうのは本当に止めて欲しい。図書館の新聞にコーヒーを吹き散らかしたら絶対に弁償沙汰になるではないか。

「あとはまぁ……警察とか、検察官とか?」

 こちらが咳き込んでいることなどおかまいなしに、教授は微妙に手探りな様子で近くのソファに腰を下ろした。訳のわからない会話が終わって、教授も立ち去り台風一過とはならないようだ。季節外れの台風、ここに上陸。しかも長期戦の様相を呈してきた。

「げほっ、い……いえ、考えていません。あ、就職は考えていますが、公務員志望で……」
「ああ、そう公務員ね。そういうのも新しいかなぁ。大学院へ行って、ゆくゆくは大学教員、研究者というのは? 考えてない?」
「その、そこまで研究が好きというわけでもないので」
「ふうん?」

 視線が合っているのかあっていないのか分からないが、教授は守の方を見て首を傾げた。白いよれよれのワイシャツの下は、黒のスラックス。全体的に白黒のトーンの中に、IDカードの入ったカードケースをぶら下げる紐だけが赤い。守はコーヒーを飲むことを諦めて机に置いた。長期戦になることを避けたいなら、この先の会話を避けては通れない。地雷を踏むか、それとも持久戦を選択するか。ダメージは、と考えるとどちらも大きい。だが前者は慣れもあるから、なんとか耐えられるはずだ。短期決戦を選択した守は、えいや、と足を踏み出した。

「……あの、真壁が何か余計な事を言ったのでは? と思うんですが」

 というか、それしか考えられない。だって、一般大学生の進路希望がのっけから”私立探偵”になるわけがないではないか。案の定、教授は相変わらずくぐもった声でもって守の考えを肯定する。

「そう、真壁直人君。彼ね、進路課の人困らせちゃってね。ぼく、まぁ普段は何の役にも立たないクラス担任ってやつでね。こういう面倒ごとだけ押し付けるの止めて欲しいんだよね。でもミステリー研究会の顧問にもなっちゃってるから、仕方ないんだけど」
「……大変ですね」

 あらゆる意味で。いま守の置かれた状況を含め、多少の皮肉を込めて言ったのだが、見事にそれは斟酌されない。あの部長にしてこの顧問ありということなのか。それとも大学教授なんて誰もがこんなものなのか。悶々とする守の周囲では、同じように新聞を読んでいた他の学生達が次々と席を立って行く。守の気のせいではなく、誰も彼もが立ち去るその過程で、守が座っている方にちらりと微妙な視線を投げかけるのだが、勿論知り合いでも何でもないから声はかけない。

 高村教授は見られていることになど気づいていない様子で――というよりも気づけないのだろう――話を続ける。

「大変なのは進路課の人ね。彼、就職面談で推理小説家になるって言ったらしくて。でも履歴書の書き方とか、志望理由とか滅茶苦茶なんだよね。文章になっていないっていうか……」
「読み手のことを考えていないというか」

 あまりに他人の目を気にしないというか。

「そう。トリックも奇抜というか」
「トリック自体がトリックというか」

 存在自体がトリッキーというか。

「うん、誰にもトリックの有効性が検証できない。つまり説得力がないんだよね」
「はぁ」

 確かにすべて同意できることなのだが、守にしてみれば、これまでの同意事項にすべて当てはまりかつ、いまその存在自体に説得力のないのは高村教授の方だ。それというのも、守は高村教授の声を知らないし、IDカードの写真は実物と照合できないでいる。高村教授のIDカードをぶらさげた他人ということもあり得る状況なのだ。

「文才があればね、というか推理小説家だったらせめてトリックに見込みがあればね、まぁ、それでもいいかと思うんだけど。有名になってくれれば大学の広報にもなるしさ」
「そう……かもしれませんね」

 ちらりと視線を上げると、立ち去る人々と入れ替わりにロビーに来て新聞を読もうとしていた学生と目が合った。その学生はあからさまにぎょっとしたような表情をすると、不自然に進行方向を九十度右に向けて、逃げるように入館ゲートにぶつかりながら図書館内へ入って行ってしまった。これで、ロビーにいるのは守と高村教授(推定)のみとなってしまったようだ。守が苦くなってしまったコーヒーを飲む間に、高村教授は滔々と話を続けているが、そろそろ、言わなくては。

「そこらへん、はっきり言ったんだよね、ぼく。そしたらさ、彼」

 そう、いい加減、白黒はっきりさせなくてはならない。

「あの! 高村先生!」
「何?」

 向けられた顔は何の感情も浮かべてはおらず、一瞬怯んだけれども、守はこれが自分のためだと言い聞かせ、またもやえいや、と足を進めた。

「ちょっと……その……あの、ですね。先生、目立ちすぎているというか……正直、そのパンダは……通報されるのではないかと、思うのですが」

 そろそろ、ロビーはあまり見回らない図書館職員だって、こちらの異変に気づいてもよさそうなものだ。守がおずおずと指摘すると、高村教授(まだ推定)は先程カードケースに触れた手で、今度は自分の頭部を支えた。そう、全体的に白黒のトーンは服だけではない。その頭部も白黒で、首が細いだけにどうにもバランス悪く、おまけに着ぐるみによくあるように口元は笑っている造形のくせにやけに無表情なのだ。

 そんな着ぐるみのパンダを被った人が、大学図書館のロビーに座っている姿を想像して欲しい。誰もがロビーから逃げていき、誰もロビーに近づかないのは当然だ。すぐに通報と相成らなかったのは、ひとえに学内が次週に控えた大学祭の準備で色々なところが色々とおかしくなっているからに過ぎない。

「これね、大学祭でゼミ生が被るっていうの、借りてきたんだけど。結構重いもんだね、肩が凝っちゃう」

 着ぐるみの頭だけを借りてきたようだから、そういうこともあるだろう。高村教授――のIDを付けたパンダの可能性も、どうしてなかなか捨てられない――は、そうぼやきつつも決して着ぐるみの頭を取ろうとしないのだった。

「そもそもどうしてそれを被る必要が……?」
「君の探偵っぷりを確認しようかと思ったんだよね。あと、ちょっと忍んでいるわけ」

 なんのことだ。探偵っぷりって。守は手にした新聞を握りつぶしそうになって、慌てて新聞を手放した。

「……せ、先生、何か誤解があるようですが、俺は別に」

 探偵を目指しているつもりはないし、探偵じみたことをやったこともない。どうせミス研部員の数名が、あることないこと吹き込んだに違いないのだ。そんな守の考えを肯定するように、パンダは大きな黒い目で守を見つめつつ――単に顔がこっちを向いているだけともいう――こくりと頷いた。

「真壁君がね、君を探偵に仕立て上げて、それを小説に書くから自分は文才とか、トリックのアイデアとかいらないって言うわけ。事実は小説より奇なりって、まぁ、確かにそういうこともあるからね」

 それは例えば、いまのこの状況のことを言っているのだろうか。確かに大学図書館のロビーに着ぐるみのパンダと二人きりって、いくら大学祭で浮かれイカれた現実でも、そうはないと思うが。

「公務員探偵、なかなかいいんじゃない?」
「いや、なりませんし。それだと、全然忍べていないのでは?」

 逆に目立ってしまったからこそ、人は去るし、近づいても来ない。確かに白黒は単純な色だが、だからこそその組み合わせは自然界にはあまり見られない色だ。それこそシマウマかパンダの園でない限り。それを指摘すると、着ぐるみを着ていない教授(少なくともその部分は人間ではある)の手が人差し指を立てて左右に振られた。

「あのね、西川君。人っていうのは自分の見たいものしか見ないものなんだよ」

 はてさて、高村教授は心理学の教授ではなかったはずだが。

「先生、それは……」

 言いかけたところに、この状況をものともせずにずかずかと近づいてくる人影が。

「守! こんなところにいたのか! いまから部室に行くぞ」

 誰と聞くまでもなく、空気をまったく読まない男、真壁直人だった。つまり、教授は見事釣り上げたわけだ。

「直人、俺は新聞を読んで……」

 ないな。握りつぶしてしまう前に膝に置いて、いまは読むことを放棄してしまっている。言い訳することも放棄した守の心情などおかまいなしに、直人は機嫌良く相変わらず自分勝手に話を進める。

「大学祭も近いからな! そろそろ部誌の製本をしなくてはいけないから、人手が欲しい……って?! なんだ、このパンダは!」

 うきうきと人を大学祭準備のための人手と計算していた直人の腕を、教授が脇から掴む。驚く直人はこれまで本気で、その存在に気づいていなかったようだ。見たいものしか見ないのか、いつも何も見ていないのか。学問的にはまだ追究してしかるべき部分が残っているように思うが。

「今井君の言う通りだね。西川君、君の側にいれば自然と真壁君が釣れる」

 その言葉で「ああ、情報源は杏ちゃんだったのか……」と守は知ったわけだが、今更そこを知ったとして、”パンダと二人で話していた学生”のレッテルが剥がれるわけではない。ここまできてしまったら、写真など撮られてどこかに流出してないことを祈るくらいしかできない。

「先生、俺は別に、ゴキブリホイホイじゃないんですよ」

 どこからも沸き出してくる直人の方は、ゴキブリと近いことを決して否定しないが。自分がゴキブリ扱いされていることにはまったく頓着せず、直人は自分の腕を掴んでいるパンダ(の着ぐるみの頭部)をしげしげと見やり、結局見た目ではなく中身でその中身を同定した。

「その声……高村先生?!」

 教授を知る直人が言うなら、IDをぶら下げた別人、という可能性はこれで随分と薄くなったようだ。それにしても、しげしげと見た割にIDカードの存在は素通りということは、やはりいつも何も見ていないとしか思えない。

「うん、そう。君ともう一回面談してくださいって、進路課の人に言われてるんだよね。でもここんとこ、ぼくのこと避けてたでしょ、真壁君」
「い、いえ……避けてたわけじゃ……」

 わけじゃないけれど、いまは全力で避けたいというのが直人の本音だろう。これから着ぐるみパンダに連行される運命が自分を待ち受けていると知れば尚更のこと。

「ふうん? まぁ、別にいいや。顧問として言うけど、大学祭より将来のことね。さ、とりあえず僕の研究室行こうか」
「ええ!? いまからですか!」
「僕だっていつも時間があるわけじゃないんだからね。勿論いまからだよ」

 当然でしょ、と高村教授は直人の手を掴んだまま歩き出す。直人の目が助けを求めるように守を見たが、守は爽やかに手を振った。これ以上巻き込まれるのはごめんだし、新聞が途中なのだ。

「あ、西川君」

 名前を呼ばれ、さっさと立ち去ってくれ、という内心が漏れてしまっていたのではないかと思わずドキッとする。

「はい」
「確かに大学祭より将来のことだけど、ミス研顧問としては部誌の発行も大切にしたいから、君、手伝いに行ってあげてね」
「……はい」

 ロビーを出て行くパンダと、それに連行されている学内でも五本の指に入る変人真壁 直人のツーショットは、大学祭前の珍事として一時大学祭公式サイトを賑わせたが、結局パンダの正体が高村教授だという話は一切出なかった。伏せられたのか、それともやはり高村教授ではなかったのか。後から大学ホームページで高村教授の顔写真を探して、顔を確認したものの、守が見ていたのはずっと顔から下だったため、胸から上の写真は役に立たたず、守の中では白黒つけられずに終わった。


 大学生活で目玉となるような経験は、人に語ることのできない白昼夢のような出来事と、結局不眠不休で手伝う羽目になった――所属していない――サークルの部誌作成だったなんて、やはり面接のネタには使えない。


 全世界の人に、声を大にして言いたい。
 将来のことを真剣に考えた上で、推理小説家を目指してもいいけれど、くれぐれも他人は巻き込まないように。

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